昭和のプロレスは、面白かった!

子供の頃プロレスが、午後8時のゴールデンタイムにありました。当時の新日本プロレスと全日本プロレスを振り返り楽しかった試合を皆さんに喜んでもらえれば幸いです。

第95話 天龍源一郎からみたプロレス人生

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こんにちは、プロレス大好きなトンチーです。
 
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今回は、天龍さんにスポットをあてて、プロレス人生を振り返り
 
たいと思います。
 
天龍さんは、今年で、70歳古希を迎えました。
 
 
子供の頃

 
福井県出身の嶋田少年(のちの天龍)は、成長がいちじるしく
 
中学2年の時は、身長182センチ、体重82キロの立派な身体つき
 
でしたが、本人は、かなりのコンプレックスがあり、勉強も苦手で、
 
周囲からからかわれる存在でした。
 
学校から帰っては、楽しみのお相撲とプロ野球の巨人戦をよく見ている
 
少年でした。
 
お相撲では、朝潮の大ファンで、なぜかアンチ大鵬でした。
 
ある時転機がおとづれます。
 
 
運命の出会い

 
13歳の時、相撲のスカウトが、来て、相撲の体験入門で
 
夏のある日に大鵬がいる二所ノ関部屋で、20日間入門体験をします。
 
1963年12月に紆余曲折の末、二所ノ関部屋に入門することとなります。
 
運命とは、不思議ですね。アンチ大鵬のいる部屋に入りその12月には、
 
あのプロレスの父、力道山がナイフで刺されるというショッキングな事件が
 
発生しています。
 
天龍は、自分の入門と力道山の死に対して、運命をかんじたそうです。
 
 
相撲時代
 
 
18歳の時同じ年の初代貴乃花が、めきめきと頭角をあらわしているのに
 
対して、自分には、素質がないのかと落ち込んだ時期がありました。
 
なかなか自分の得意技を見つけられなかった天龍でしたが、
 
持ち味の突っ張りを取り入れてから、番付をドンドン伸ばしていきました。
 
1973年23歳になる時から幕内16場所在位し最高位西前頭筆頭まで
 
上り詰めました。
 
大鵬2世と期待された時期もありました。
 
しかし1975年師匠の死去とともに部屋の後継者問題に巻き込まれます。
 
天龍は、慕っていた押尾川部屋大麒麟)にいきたかったのですが、
 
金剛が、二所ノ関部屋を引き継ぐこととなり引き戻されます。
 
先輩力士からの軋轢に耐えられず、嫌気をさしていました。
 
又、当時付き合っていた恋人の突然の死に意気消沈していました。
 
 
相撲界からプロレス界に転身

 
大鵬の知り合いだった元東京タイムズ記者の森岡氏(後筑波大学教授)
 
と出会い、森岡氏が、ブレーンを務めていたジャイアント・馬場を紹介されて
 
プロレスに転向することを決意します。
 
1976年26歳の時全日本プロレスに入団します。
 
私は、当時レスラーとしては、まだ細身のため、あまり関心は、なく
 
後にこれほど大成するとは、思ってもみませんでした。

 
 
馬場は、相撲界からの鳴り物入りの天龍にかなり期待していましたが、
 
なかなか実力がつかず、人気も急降下していきました。
 
2回目のアメリカ遠征で、再修業の旅にでます。
 
1981年31歳の時ノースカロライナ州グリーンズボロで、ミスター・フジと組み
 
NWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得します。
 
凱旋帰国してビル・ロビンソンのパートナーに起用されて当時の王座チーム
 
馬場・鶴田のインターナショナル・タッグ王座の挑戦をしたことを
 
きっかけに、実力と人気を徐々にとりもどし、自信を持つようになりました。
 
全日本プロレスの第三の男と注目されて、鶴田との2枚看板で、ダブルエース
 
の座を確立します。
 
1984年34歳の時には、リッキー・スティムボートと戦いUNヘビー級王座の
 
タイトルを獲得しました。
 
又その年の9月から長州力率いるジャパンプロレスが、参戦して
 
闘争心むきだしにして長州力との熱戦を繰り広げました。
 
全日本プロレス活性化のため1986年36歳の時、阿修羅・原とタッグを
 
組み龍原砲を結成、のちに天龍同盟を結成しました。
 
鶴田とのシングルマッチ対決は、ドル箱カードになりました。
 
1989年39歳の時、鶴田を破り三冠ヘビー級王座で第2代王者になりました。
 
又スタン・ハンセンとタッグを組み、馬場・木村組と対戦して
 
馬場からはじめてピンフォールを奪った快挙を成し遂げる。
 
その年の世界最強タッグリーグで、初の全勝優勝の栄冠に輝きました。
 
 
 
14年間在籍した全日本プロレスを退団して1990年40歳の時
 
SWSに移籍しました。
 
しかしこの団体も長くは続かず1992年42歳の時WARを設立して
 
念願の新日本との対抗戦を実現しました。
 
越中詩郎を破り、翌年1993年から長州力木村健吾橋本真也
 
蝶野正洋馳浩藤波辰爾をすべてシングルマッチで、ことごとく
 
破り勝利しました。
 
1994年44歳の時、アントニオ猪木からピンフォール勝ちして日本人レスラー
 
として、馬場・猪木に勝利した唯一のレスラーが、天龍なのです。
 
大仁田厚グレート・ムタ 高田延彦ともシングル対決で勝利しました。
 
 
フリーになってから

 
1998年48歳の時、女子の神取忍とも異色対決しています。
 
1999年49歳の時武藤敬司と対戦してIWGPヘビー級王座を奪取して
 
います。
 
私の知らなかったのは、意外にも2000年に全日本に復帰したことです。
 
当時三沢光晴率いるプロレスリング・ノアを旗揚げしたため、全日から
 
大量の選手が、流出しました。
 
 
2003年53歳の時、旗揚げしたWJプロレスに参戦、長州力とのシングルマッチ
 
とか長州とのタッグで、WMGタッグを奪取するも経営悪化で、離脱
 
新日本、プロレスリング・ノアなどたくさんの団体に積極的に参戦し
 
中西学や、初代タイガーマスクとの対戦カードもありました。
 
8月に天龍が、最後の対戦相手として、オカダ・カズチカに挑戦状を
 
再度たたきつけたトークバトルが、面白いです。
 
下記をクリックしてください。
 

 
2010年天龍プロジェクトを設立して5年間活動しましたが、
 
2015年2月に引退表明をし、11月15日引退の日両国国技館
 
最後の対戦相手 オカダ・カズチカに17分27秒片エビ固めで敗れました。
 
まとめ
 
 
天龍さんほど、多くの他団体のレスラーと対戦した人は、いないと思います。
 
26歳から65歳までの長いプロレス人生は、数多くの名勝負が、刻まれて
 
います。
 
新団体の旗揚げや他団体の参戦を通じて、多くのプロレス財産を残して
 
くれました。
 
デビュー当時は、細身の体でレスラーとし大成することは、あまり期待して
 
いませんでした。
 
しかし、数々の活躍で天龍源一郎を見直しました。(すいませんでした。)
 
最近は、バラエティータレントとして活躍されているようですが、今後とも
 
お体を大切になさってもらいたいと思います。


ケンコバもしびれた 天龍源一郎引退試合裏話