往年のプロレスは、面白かった!第71話 日本人で活躍したレスラー 剛腕・鉄人と言えば?
こんにちは、往年のプロレスを愛するトンチーです。
した小橋健太についてご紹介します。
人間味あふれる数少ないレスラーの一人だと思います。
逃げない真向勝負が、ファンの気持ちを掴んだともいえますね。
人間味あふれる数少ないレスラーの一人だと思います。
逃げない真向勝負が、ファンの気持ちを掴んだともいえますね。
プロフィール
リングネーム 小橋建太に改名
1967年3月27日生まれ(52歳)
身長 186センチ
ラリアットで、本家ハンセンを倒したのは、唯一小橋だけです。
エピソード
若手時代に馬場の付け人をした時、馬場から、「お前を付き人にした
つもりは、ない。帰れ!帰れ!」と突き返されます。
3か月以上無視されますが、献身に馬場の世話をした結果
ある時馬場にレストランに呼び出され「よう~頑張った!」
と認められ今までのモヤモヤしていた気持ちが、一気に吹き飛んだ
3か月以上無視されますが、献身に馬場の世話をした結果
ある時馬場にレストランに呼び出され「よう~頑張った!」
と認められ今までのモヤモヤしていた気持ちが、一気に吹き飛んだ
そうです。馬場は、小橋の素質をみて、あえて厳しく育てて
いたのですね。
小橋選手が、多くのファンからの愛されたのは、人柄の良さですね!
リングの中でのまっすぐな姿勢が、ファンに受けましたね。
小橋選手が、多くのファンからの愛されたのは、人柄の良さですね!
リングの中でのまっすぐな姿勢が、ファンに受けましたね。
数々のタイトルと名勝負
1990年 2代目タイガーマスク(三沢光晴)と組んで
アジアタッグ王座を獲得
1993年~95年 三沢と組んで、世界最強タッグ決定リーグ戦
3連覇
1996年 田上明を破り第16代三冠ヘビ―級王座獲得
2000年 ベイダーを破り第25代三冠ヘビー級王座獲得
2003年 三沢の保持するGHCヘビー級王座に挑戦
第6代王者に就き13回の防衛に成功
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美人の奥さんの献身的支え
2006年に腎臓癌が、見つかり長期休場に追い込まれるが、
驚きの復活を遂げる。(546日ぶり復帰)
レスラーにとって怪我は、つきものですが、小橋も骨折を
繰り返すもリングに再び復活する姿には、頭が下がります。
彼の復帰の陰で、献身的な美人の奥さんの存在が、大きいですね。
選手生命の危機を何度も救ったのが、演歌歌手であったみずき舞
こと妻の真由子さんです。
倒れても倒れても戦い続ける小橋選手 プロレスが好きだったから
諦めなかったと後に述べています。
小橋を支えたい気持ちから、真由子さんは、一度逆プロポーズ
をするも断られます。
小橋に腎臓癌を患っている状態で、彼女をサポートする余裕が、
なかったのですが、復帰後、10年の交際の末、結婚する決意を
しました。
まとめ
仲睦まじい夫婦、支えあう姿は、夫婦の鏡であり、羨ましい限り
です。
ファンに惜しまれつつも25年間のレスラー生活で、何度も
名勝負を残しています。
レスラー引退後も末永く活躍をお祈りします。
しました。
まとめ
仲睦まじい夫婦、支えあう姿は、夫婦の鏡であり、羨ましい限り
です。
ファンに惜しまれつつも25年間のレスラー生活で、何度も
名勝負を残しています。
レスラー引退後も末永く活躍をお祈りします。
第70話 日本人で活躍したレスラー ミスター三冠と言えば?
こんにちは、昭和のプロレスをこよなく愛するトンチーです。
今回は、覆面レスラー2代目タイガーマスクとしても活躍した
三沢光晴選手についてご紹介します。
プロフィール
1962年6月18日生まれ(46歳)
北海道夕張市生まれ 埼玉県越谷育ち
身長 185センチ 体重 110㌔
デビュー 1981年
得意技 エルボー・バット フェイスロック
2代目タイガーマスクの誕生
受け身を覚えるのが、早く、入門から5か月目にデビューする
というのは、全日本プロレスでは、異例の事でした。
前座レスラーの頃 越中詩郎との試合は、前座のゴールデンカード
として注目されていました。器械体操の経験が、あったので、
2代目タイガーマスクとしても活躍されるスキルをもって
いたと思います。
1984年ロサンゼルスオリンピックの年に海外遠征している時
2代目タイガーマスクとして馬場から要請を受けます。
あります。
と馬場さんの姿が、載っていたのを覚えています。
1984年8月26日 田園コロシアムでラ・フィエラ戦で、
2代目タイガーマスクとして華麗にデビューします。
2番煎じという評判もありましたが、空中殺法でファンの期待に応えます。
王座を獲得しその年にヘビー級に転向します。
空中技を多用したため膝に負担がかかり左膝前十字靭帯断裂で、
長期休場をします。(1989年3月~1990年1月まで)
三沢選手としては、本当は、寝技を使いたかったそうですが、
本人の思惑とは、違っていたので、ジレンマがあったそうです。
天龍の突然の退団
天龍の突然の退団
1990年春ごろ、天龍が、全日本プロレスを退団してSWSに
移籍します。複数の選手が、天龍に追随する騒動がありました。
これで、鶴田・天龍の黄金カードがなくなり、
ポスト天龍に名乗りをあげた三沢は、あっさりマスクを脱ぐきっかけ
となりました。
三沢は、川田利明、小橋健太と共に超世代軍を結成します。
三沢の活躍
全日本の顔であった鶴田を1990年シングルマッチで勝利し
1992年スタン・ハンセンを破り三冠ヘビー級王座を獲得
鶴田軍と超世代軍との抗争は、名物カードになりました。
鶴田が、体調を崩し長期休場をすると全日本のエースとして
の看板を背負う事になります。
その後馬場の後継者として、全日本プロレスの社長に一時なった事
があります。
新団体ノアの旗揚げ
三沢と馬場夫人元子さんとレスラーの扱い方、対戦カードなどで、
考え方に開きができて、三沢は、全日本を退団します。
三沢の思惑以上に追随する選手が、26人にもなりました。
でした。
三沢にとって、この大量のレスラーを抱える事で、資金繰りに
奔走する事になりました。
社長兼選手として充分でない体調にも関わらず、一試合も休むことなく
新団体ノアを盛り上がました。
悲劇の死
晩年 視力障害が起きたり、肩、腰、膝も慢性的な痛みを抱えて
いました。近い周囲の人には、「辞めたい」「引退したい」
と漏らすようになっていました。
と漏らすようになっていました。
2009年6月9日 広島県立総合体育館グリーンアリーナで行われた
GHCタッグ選手権試合に挑戦者として潮崎とタッグを組み
バイソン・スミス&斎藤彰俊の王者チームと対戦しました。
試合中、斎藤の急角度のバックドロップを受け、意識不明
心肺停止状態になり、広島大学病院に搬送されましたが、
午後10時10分天国に行ってしまいました。
意識を失う前にレフェリーの西永が「動けるか❓」と聴くと
「だめだ、動けねぇ」といったのが、最後の言葉になりました。
第69話 日本人で活躍したレスラー デンジャラスKとは?
こんにちは、昭和のプロレスをこよなく愛するトンチーです。
今回は、全日本プロレスで、活躍した選手をご紹介します。
川田利明という名前を聞いたことありますか?
プロフィール
1963年12月8日生まれ(56歳)
栃木県栃木市出身
身長 183センチ
体重 105㌔
デビュー 1982年 引退 2010年
得意技 パワーボム ジャンピング・ハイキック
垂直落下式バックドロップ
エピソード
どん底から這い上がってきた根っからのド根性ファイターですね。
デビュー以来引き分けをいれて205連敗という記録をもっています。
1994年にスティーブ・ウィリアムスの3冠戦に勝つものの、防衛する
事が出来ず、9年もの月日をかけて2003年ドン・フライセイ戦で
やっと初防衛する。
お笑いタレントとの親交も深く、ダチョウ俱楽部や志村けんとの
つながりがあります。
寡黙で、ぶっきらぼうなイメージが、ありましたが、後程
ラジオ番組で、自らつくりだしたキャラクターだと告白します。
現在では、タレント活動や居酒屋「麺ジャラスK」を経営しています。
ラーメンと鶏のから揚げを看板メニューにしています。
いつもワクワクとした生き方ができるのもこちらを学んでいる
お陰です。
2001年1月4日 東京ドーム
第68話 日本人で活躍したレスラー サムライ・シローとは?
こんにちは、昭和のプロレス大好きトンチーです。
についてご紹介します。
最初に応最援ポチお願いします。
プロフィール
1958年9月4日生まれ(61歳) 9月3日という説もあり
東京都江東区出身
身長 185センチ 体重 105㌔
デビュー 1979年
中学時代は、音楽に熱中したが、曲作りに必要ないいアイデアが
ない為断念。高校時代は、野球に没頭するも団体競技でなく
自分一人で、責任をもてる競技に興味が変わっていきました。
高校時代の野球部の監督を通じてジャイアント・馬場を紹介されて
1978年7月に全日本プロレスに入門しました。
馬場から、100㌔を超えたら海外遠征をさせてやるという約束もあったが、
試合で、なかなか結果がでず、245戦目にしてやっと初勝利を挙げます。
運命のライバル
1981年8月にあの三沢光晴のデビュー戦の対戦相手になる。
これは、当時前座の黄金カードとして注目されました。
その後三沢と共にメキシコに遠征しサムライ・詩郎として活躍
新日本プロレスに移籍
その年の4か月後馬場から、三沢を日本に帰せ!チケットを送るから
空港まで、送るように命じらました。
することに危機感を覚え1985年2月坂口征二氏の誘いで、ハワイで、
巡業をしていた新日本プロレスに合流、移籍となりました。
わたしが、いつもワクワクできるもの実は、BMTSプログラムを学んだお陰です。
貴方にプレゼントがあります。
のりの感じ、風呂に入る場合でも全日は、馬場さんがあがるまで
他の選手は、絶対に入浴できない風習でしたが、新日の場合は、
試合が終わった順番から、入っていく事が出き、全日の癖が残って
いた越中は、いつまでもウロウロしていると猪木から
「ウロウロしてんじゃねぇ!早くシャワー浴びろ!」と注意され
ました。
1992年12月14日 大阪府立体育会館
越中対天龍の試合
第67話 日本人で活躍したレスラー 格闘王と言えば?
こんにちは、昭和のプロレス大好きトンチーです。
今回は、私と同い年の格闘家 前田日明選手をご紹介します。
最初に応援ポチお願いします。
プロフィール
1959年1月24日生まれ(61歳)
身長 192センチ 体重 115㌔
デビュー 1978年 引退 1999年
得意技 キャプチュード(捕獲投げ) 各種スープレックス
各種関節技、キック フライング・ニールキック・など多才
- 価格: 1540 円
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趣味
釣り、読書又、日本刀の収集家でもあり50振以上所有しています。
葉巻を好んで吸っています。
新日本プロレス入団
にスカウトされました。誰しも猪木に憧れて入団したと思いがち
ですが、「モハメド・アリのジムと提携していたので
ボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる」と新間寿氏に
言われたのが、きっかけです。
海外修行で、イギリスに渡り1983年ウェイン・ブリッジを破り
ヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得
その年の5月には、IWGP決勝リーグ戦で、欧州代表として出場
私が、いつもワクワクした人生をおくれるのもBMTSプログラム
を学んだお陰です。
あなたにプレゼントがあります。
新日本プロレスと袂を分かれる
プロレス界にサンボやキックボクシングの要素を取り入れ
格闘技を日本人に浸透させた第1貢献者です。
第1次UWF,第2次UWF,リングスを立ち上げています。
1985年12月6日業務提携という形で、新日本プロレスに復帰
が、行われ長州の背後から正面に回り込み長州の顔面をキック
長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷、新日本プロレスは
前田に無期限出場停止の処分を下す。その後解雇される。
1986年10月9日 両国国技館
プロレス対マーシャルアーツ異種格闘技
第66話 日本人で活躍したレスラー 筋肉マンをモデルにした男とは?
こんにちは、昭和のプロレス大好きなトンチーです。
最初に応援ポチお願いします。
今回は、当時漫画でも有名だった筋肉マンをモデルに新日本プロの企画
した日本人レスラーがいます。ご紹介します。
彼のリングネームは、スーパー・ストロングマシンと言います。
実写版となると、漫画のイメージより強そうで、ダーティーな感じ
がしたのは、私だけでしょうか?
プロレスマニアの私は、正体が、誰か体型からして、わかっていました。
プロフィール
本名 平田 淳嗣
1956年12月20日生まれ(63歳)
神奈川県 平塚市出身
身長 183センチ 体重 115㌔
デビュー 1978年 引退 2018年
得意技 魔神風車固め マシンラリアット DDT
ジャーマン・スープレックス
ニックネームは、戦慄の殺人魔神
若手の頃は、なんでもこなす万能型レスラーで、華麗なジョージ・高野
過激な前田日明、パワーの平田の三羽ガラスを全面にアピールします。
彼の息子もマスクマンレスラーとして活躍しています。
タイトル歴
アジアタッグ王座 1回(阿修羅・原)
エピソード
若手の頃、飲みに行った帰り、合宿所のトイレに間に合わず
廊下に大グソをたれた失態がありました。前田は、高野の仕業だと
思い問い詰めるも「俺じゃない」と否定、高野は、「お陰で、うんこ
踏んじゃった」言い隣にいた平田が、「すまん、俺だ!」と告白
新日で、当時人気のあった筋肉マンをモデルにした企画があがる。
もともと平田に打診が来た時乗る気が、しませんでした。
メキシコ武者修行の後平田として、凱旋帰国する予定でしたが、
この時の企画の反響が、大きく味を占めて自らマスクを注文し
スーパー・ストロングマシンが、誕生します。
当時まだ、試合運びが、ぎこちなくマネージャーのワカマツの存在は、
大きかったと平田は、後に言っています。
後に増殖し続けスーパー・ストロングマシン3号・4号まで登場します。
2005年7月13日 日本マクドナルド
アンドレ&猪木対ストロングマシン1号・2号の試合
猪木のセコンドに若かりし頃の蝶野が、映っています。
第65話 日本人で活躍したレスラー 悲劇のマスクマンとは?
おはようございます!昭和プロレスが、大好きなトンチーです。
今回は、将来を嘱望されつつも悲劇のマスクマンとして登場
その後、知らない間に忘れられた均整整ったマスクマンを
ご紹介します。
最初に応援ポチお願いします。
その人の名は、「ザ・コブラ」と言います。
プロフィール
本名 高野譲二(ジョージ・高野)
1958年6月23日(61歳)
身長 185センチ 体重 115キロ
デビュー 1977年 引退 2004年9月
得意技 ドロップキック ムーンサルトプレス
元大相撲力士でもあります。
対戦 運命を感じますね!
新日本に入門当初から、バランスの取れた身体、身体能力、マスクも
よく将来を嘱望されるエース候補でした。
戦績
前座時代では、対前田戦の成績 35勝1敗15引き分け 圧勝でしたね!
高野、平田(スーパー・ストロングマシン)、前田は、ヤングライオン杯
の三羽ガラスで、中でも一番先輩です。
1982年 メキシコに遠征 その後カナダ カルガリーで、活躍
「ザ・コブラ」として凱旋帰国、本人は、まだ、海外遠征を希望して
突然の引退で、急遽日本に呼び戻されたのです。
そこから、悲劇が、始まります。
「ザ・コブラ」謎のマスクマン 登場
ザ・コブラを抜擢します。
凱旋帰国してデビュー戦は、マスクマン バンピートと対戦
試合前、突然、バンピートは、自らマスクを剥ぎ、
正体が、デイビーボーイ・スミスだとネタ晴らしする始末
あのダイナマイト・キッドの従兄弟にあたります。
お互いからみずらい試合展開となりました。デビュー戦は、失敗
ファンは、タイガーロスの影響が、かなり頭の中に残っているので、
あの当時誰が、やっても失敗したと思いますね!
しかもファンは、ザ・コブラの正体をすでに知っていて高野コール
というなんともしらけた試合でした。
ライバルの全日本プロの転出
ダイナマイト・キッド デイビーボーイ・スミス 小林邦昭と
いったライバルが、次々と全日本プロレスへ転出し、運に
恵まれなかった。
ヒーローになれないザ・コブラ
を獲得するも輝きませんでした。
のチャンス到来、誰もが、ザ・コブラが、勝利するものと期待
していましたが、決勝戦で、敗れます。(ジャーマンフィニッシュホールド負け)
内容的には、負けていました。
私が、いつもワクワクした人生が送れるのもBMTSプログラムの
お陰なんです。貴方にプレゼントがあります。
初代IWGPジュニアヘビー級王座を賭けた一戦
最も輝いた時期
高田戦を最後にマスクを剥ぎカナダに渡り素顔のジョージ・高野
として1986年7月凱旋帰国します。
ヘビー級となった高野は、スーパー・ストロングマシンと
します。(1989年3月16日)
その後新団体SWS移籍や新団体NOWやPWCを自ら旗揚げするも
迷走するばかりでした。