第85話 天龍VS川田の師弟対決 3冠ヘビー級タイトルマッチ
こんにちは、昔のプロレスを懐かしく見ているトンチーです。
今回は、天龍選手と川田選手の師弟対決をご紹介します。
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天龍選手は、全日本プロレスを1990年に飛び出して、10年の歳月がたち
ました。その後、三沢選手が、旗揚げしたノアの団体への移籍で、多数の
選手が、離脱し、全日本プロレスは、危機的状態に陥りましたが、中でも
他団体との対決で、バリエーションが、増えてファンを呼び込むことに
成功しました。
経営的には、かなり厳しい時代だったと思います。
川田選手も頼もしく成長し、天龍選手と互角の試合をするまでになりました。
堂々とした二人の試合には、男として、誇らしく感じます。
2000年10月28日 3冠ヘビー級タイトルマッチで、川田の防衛なるか
はたまたチャレンジャー天龍のタイトル奪取なるか最後まで、予断を許さない
すばらしい試合です。是非ご覧ください。
最後の勝利インタビューまで、見てくださいね。
第84話 新日本プロレスを救った100年に一人の逸材という人物とは?
こんにちは、私は、昭和のプロレスから、平成のプロレスに変わり、
2000年頃までは、よくプロレスを見ていました。
プロレス界の低迷期
8時のゴールデンタイムには、楽しんでいたプロレスも深夜に追いやられてしまいます。
1999年頃~2007年は、プロレスの低迷期、この頃は、総合格闘技の試合が、
注目され、K-1,PRIDEが、活躍していましたね。
馬場の死後、全日本プロレスは、大量の離脱者がでます。
三沢光晴が、2000年にノアを旗揚げしたからです。
いう危機的状況でした。その窮地を救うため、新日本プロレスは、対抗戦試合を
する事になります。
しかし、長くは、続かなかったようです。今度は、新日本プロレスのエース格の
のです。
新日本プロレスを救った男
どのプロレス団体も暗黒時代の中、新日本プロレスに新星が現れます。
実は、100年に一人の逸材といわれる人が、注目を集めるようになります。
彼の名は、棚橋弘至といいます。
プロフィール
1976年11月13日生まれ(43歳)
身長 181センチ
体重 101㌔
デビュー 1999年
得意技 ハイフライロール、ドラゴン・スープレックスホールド
足4の字固め、青天井エルボー、スリング・ブレイド
タイトル歴
IWGPヘビー級王座 8回(最多戴冠記録保持者)
IWGPタッグ王座 3回
IWGPインターコンチネンタル王座 2回
IWGP U-30無差別王座 2回
G1 CLIMAX 優勝3回 蝶野と2人のみ
GHCタッグ王座 1回
まだ書ききれないくらい多くのタイトルを獲得しています。
エピソード
プロレス入門時には、3度目にしてやっと合格という意外な一面があります。
棚橋は、大学を中退してもプロレスを始めたかったのですが、
長州力から「何があるかわからないから、大学は、卒業しておけ!」
諭されます。
後にクイズ番組に出た時に立命館大学卒という肩書で出演できているのは、
長州のおかげだと感謝しています。
怪我にみまわれ、長期休場を何度も繰り返すも復帰後の大活躍をみると
ファンの心をつかんでいきましたね。
勝利したあと、「愛してま~す」という事が、最初は、ファンから、受け入れ
られなかったですが、信念を曲げない彼は、今では、この言葉が、ないと
棚橋では、ないという感覚にしてしまった事は、凄い彼の粘り強さの勝利と
言えますね。
棚橋としては、ファンを愛し、新日本プロレスを愛していると言いたかった
のでしょう!
のちに彼のライバルとしてオカダカズチカが出てきます。
この二人の看板で、新日本プロレスは、復活する事が出来たと思います。
第83話 世界最強タッグマッチ決勝戦 鶴田・谷津VS天龍・ハンセン
1989年12月6日 日本武道館で、両チーム全勝同士の決定戦になりました。
鶴田・谷津の五輪コンビと天龍が、ハンセンとコンビを組んでいたので
タッグチームの実力は、互角?
4人とも実力は、互角ですが、五輪コンビの方が、チームワークとして、有利だ
という下馬評でした。
天龍・ハンセンのタッグ経験は、少ないので、コンビネーションが、どこまで
上手く通じるのか疑問は、ありました。
自分のチームが、不利になった時、うまくカバーができるかが、勝利のカギに
自分のチームが、不利になった時、うまくカバーができるかが、勝利のカギに
なりそうですね。
短期決戦か?長期決戦か?
試合展開は、五輪コンビが、短期決戦をねらっているようです。
結構頑張っていますね。
ハンセンが、珍しく顔面流血になり、かなりグロッキーなシーンを見る事が
ハンセンが、珍しく顔面流血になり、かなりグロッキーなシーンを見る事が
できました。
壮絶な戦いになってきました。4人ともかなり疲れています。
さて、どちらのチームが、優勝したのでしょうか?
前半は、いろいろなチームの試合がありますので、この試合をすぐに
前半は、いろいろなチームの試合がありますので、この試合をすぐに
第82話 天龍VS武藤 3冠ヘビー級タイトルマッチ 2001年6月8日 日本武道館
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天龍と言えば全日本プロレスの鶴田と共に2枚看板、しかしこの時は、
すでに鶴田は、天国にいっていましたね。
色々な試合運びのできるセンス抜群のレスラーだと思います。
全日本プロレスの看板を背負って天龍としては、絶対に負けられない
3冠ヘビー級タイトルマッチです。
どちらが、勝利を得るのか非常に気になる試合でした。
共に足に負傷を負いながらも負けない姿勢は、見上げたものです。
体力も互角ですね!
この当時は、天龍が、51歳、武藤は、38歳という脂ののったベテラン同士の
戦いになりました。
天龍の延髄きり、コーナーからのバックドロップも見事ですし、
武藤の飛び技、相手の技を交わして自分の技に持っていく所は、
見ていて最高に面白く感じます。
両雄の最後まで、目の離せない戦いを是非ご覧ください。
第81回 あの頃のプロレスは、面白かった!夢の6人タッグマッチ
これからは、私が、見て感動した試合とか、夢のタッグマッチ戦
などをご紹介したいと思います。
今回は、全日本プロレス20周年記念での特別試合での模様です。
今考えてもこれだけの豪華メンバーをそろえた馬場さんの政治手腕には、
驚きますね。
します。
スタン・ハンセン ジャンボ鶴田
レフリーは、ジョー樋口でした。
当時の選手の年齢は、馬場(54)、ドリーファンク・ジュニア(51)
スタン・ハンセン(43)、アンドレ・ザ・ジャイアント(46)
テリー・ゴディ―(31) 鶴田(41)でした。
今では、レフリーも含めて生存しているのは、ドリーファンク・ジュニアと
スタン・ハンセンのふたりのみとなりました。
この3か月後にアンドレ・ザ・ジャイアントが、なくなりました。
試合運びをみても元気がなかったのが、うかがえると思いますが、
貴重なシーンですね。
第80話 日本で活躍したレフリー 第2弾 ユセフ・トルコをご存知ですか?
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今回は、ユセフ・トルコ氏をご紹介します。
どう見ても日本人には、見えませんね。
どうして納得いかなかったので調べてみました。
プロフィール
1930年5月23日生まれ(83歳)
本名 ユセフ・オマー
トルコ人の両親の間に横浜で生まれるとありました。
プロレスデビュー 1954年
元々プロレスラーであり、のちにレフリーをしていますね。
私の印象としては、やはり、ひげをはやした奇妙なレフリーとして記憶に
残っています。
仲違いして、新日本プロレスを離れます。
フジテレビ「大日本プロレス」を企てましたが、失敗に終わります。
1980年異種格闘技戦 猪木VSウイリー・ウィリアムス戦で、レフリーを
務めたことは、今でも鮮明に覚えていますね。
1981年アブドーラ・ザ・ブッチャーを新日本に移籍させたのも
ユセフ・トルコの影響だと言われています。
2013年心臓関係の病で83歳で死去
1980年2月27日 世界格闘技戦 蔵前国技館
猪木VSウイリー・ウィリアムス
第79話 昭和のプロレスは、面白かった!レフリー編
こんにちは、昭和のプロレスをこよなく愛するトンチーです。
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今回は、角度を変えて歴代のレフリーをご紹介します。
私が、記憶しているのは、小学低学年の頃、TVで、プロレス中継を
見ていますと、白いTシャツのおじいさんが、レフリーをしていたのを
覚えています。
沖識名というレフリーをご存ですか?
プロフィール
1904年7月6日生まれ(79歳没)
本名 識名 盛夫
リングネーム 沖識名
沖縄出身
沖縄出身
元プロレスラーで1932年デビュー
引退 1973年
タイトル歴 NWAハワイジュニアヘビー級王座
元々レスラー歴があったとは、知りませんでした。
昭和40年(1965年)当時61歳でしたから、やはりかなりおじいさんに
見えたのも今から思えば不思議な感じがします。
レフリーをしましたが、納得できない、えこひーきをしていたと
思う試合がところどころあったと思います。
というのは、スリーカウントをする時に勝って欲しいレスラーには、
早くカウントし、負けて欲しいレスラーが、ホールドした時は、
ゆっくりスリーカウントをしていたのが、はっきりわかりました。
プロレスは、八百長?
プロレスは、ショーですが、アンフェア―な審判は、納得できません。
だから、当時のプロレスが、八百長呼ばわりした引き金にもなりました。
今でもプロレスが、八百長と思う方が大勢いると思いますが、私の考えは、
少し違いがあります。
たしかに、ファンに楽しんでもらうため色々と工夫をして、ファンに
納得してもらう試合をしないといけないのは、プロとしての信条である
と思います。
一般の人からするとスーパーマンでないといけないのです。
その為には、日頃から、血のにじむようなハードな訓練に耐えて
強靭な肉体をきずくからこそ、怪我、骨折に耐えられるのだと思います。
だからこそ、あのような飛び技、寝技にも耐えれる事ができるのですよ!
そこをわからないで、単純に八百長というのは、短絡すぎますね。
鍛え上げられた肉体は、嘘をつきません。
強い人は、それだけの肉体鍛錬、努力を怠っていません。
エピソード
1965年(昭和40年)沖識名は、拳銃不法所持で逮捕された経験があります。
その留置場で、「プロレスは、八百長だろう?」と若いチンピラにからかわれ
自分が、命をかけたプロレスの批判をされた事に腹をたて取っ組み合いの末
相手を倒してしまいました。当時61歳でした。
越えるレフリングを務めました。