昭和のプロレスは、面白かった!

子供の頃プロレスが、午後8時のゴールデンタイムにありました。当時の新日本プロレスと全日本プロレスを振り返り楽しかった試合を皆さんに喜んでもらえれば幸いです。

第84話 新日本プロレスを救った100年に一人の逸材という人物とは?



こんにちは、私は、昭和のプロレスから、平成のプロレスに変わり、
 
2000年頃までは、よくプロレスを見ていました。
 
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プロレス界の低迷期

 
8時のゴールデンタイムには、楽しんでいたプロレスも深夜に追いやられてしまいます。
 
1999年頃~2007年は、プロレスの低迷期、この頃は、総合格闘技の試合が、
 
注目され、K-1,PRIDEが、活躍していましたね。
 
馬場の死後、全日本プロレスは、大量の離脱者がでます。
 
三沢光晴が、2000年にノアを旗揚げしたからです。
 
残された全日本プロレスには、川田利明渕正信太陽ケア馳浩のわずか4名と
 
いう危機的状況でした。その窮地を救うため、新日本プロレスは、対抗戦試合を
 
する事になります。
 
しかし、長くは、続かなかったようです。今度は、新日本プロレスのエース格の
 
武藤敬司が、会社の路線変更(総合格闘技)に疑問をもち全日本プロレスに移籍した
 
のです。

 

新日本プロレスを救った男

 
 
どのプロレス団体も暗黒時代の中、新日本プロレスに新星が現れます。
 
実は、100年に一人の逸材といわれる人が、注目を集めるようになります。
 
彼の名は、棚橋弘至といいます。
 
プロフィール
 
 
1976年11月13日生まれ(43歳)
 
 
身長    181センチ
 
体重    101㌔
 
デビュー  1999年
 
得意技   ハイフライロール、ドラゴン・スープレックスホールド
 

      足4の字固め、青天井エルボー、スリング・ブレイド

 




タイトル歴

IWGPヘビー級王座 8回(最多戴冠記録保持者)

 
IWGPタッグ王座  3回
 
IWGPインターコンチネンタル王座  2回
 
IWGP U-30無差別王座  2回
 
G1 CLIMAX  優勝3回 蝶野と2人のみ
 
GHCタッグ王座 1回
 
まだ書ききれないくらい多くのタイトルを獲得しています。
 
 

エピソード

 
 
棚橋の父親は、最初、豊臣秀吉の名を逆さにして吉秀としたかったようですが、

母親の猛反対にあいます。プロレス好きの父親は、猪木のファンでもあり
 
猪木寛至の一文字を貰って弘至にしたといわれています。

 
プロレス入門時には、3度目にしてやっと合格という意外な一面があります。
 
棚橋は、大学を中退してもプロレスを始めたかったのですが、
 
長州力から「何があるかわからないから、大学は、卒業しておけ!」
 
諭されます。

 
後にクイズ番組に出た時に立命館大学卒という肩書で出演できているのは、
 
長州のおかげだと感謝しています。
 
怪我にみまわれ、長期休場を何度も繰り返すも復帰後の大活躍をみると
 
ファンの心をつかんでいきましたね。

 
勝利したあと、「愛してま~す」という事が、最初は、ファンから、受け入れ
 
られなかったですが、信念を曲げない彼は、今では、この言葉が、ないと
 
棚橋では、ないという感覚にしてしまった事は、凄い彼の粘り強さの勝利と
 
言えますね。

 
棚橋としては、ファンを愛し、新日本プロレスを愛していると言いたかった
 
のでしょう!

 
のちに彼のライバルとしてオカダカズチカが出てきます。
 
この二人の看板で、新日本プロレスは、復活する事が出来たと思います。